2011-03-11 に発生した東北地方太平洋沖地震で、交通機関がマヒした時に徒歩帰宅した記録です。東京都 大崎から千葉県 市川まで歩行しました。
1908 宝町ランプ入り口
ここの入り口も閉鎖されていて首都高に入る事が出来ない。銀行・証券のビルは増えて行く。しかし、まだ東京証券取引所は見えていない。
1909 宝町ランプ入り口(一般道側を見る)
一般道の渋滞は激しい。バスは流れの中から脱出できない状態だ。町中のビルの明かりは、籠城を決め込んだ人たちが点けているのだろうか。
1911 宝町ランプ入り口近くのビル
徒歩帰宅中幾つかのビルは窓ガラスが割れている。全面落下まで至らないものの、ヒビが入っている。ガムテープで補修しているのはどこも同じか。
1915 東西線 永代通り駅
裏通りを通っていたので、幹線道を渡る信号が無くなった。いったん、昭和通りに出る。そして信号を渡る事にする。
1916 東西線 永代通り駅
この場に居た時、判断力が鈍っていた。しかし、この様に地図を撮影しながら移動すれば間違いないと思っていた。少なくともデジカメを覗けば場所は分かると思っていた。バッテリーは予備を1本持っている。これをまとめている時に考え直してみると、主要な地下鉄路線が
4 つある。地下鉄の通路に降りて何らかの確認をしたら、もしかしたら 1 路線生きていて徒歩距離を短縮できたかもしれない。結果論としては動いていなかったけれど。
1923 東京証券取引所
ある意味象徴的な場所だ。ここの前を通過する事は狙っていた。佇む人々さえ写っていなければ、いつも通りの平静を保っていると言っても何の疑問もない様子だった。そして、何事もなく週明けは寄り付きを始めるのだろう。如何なる乱高下があったとしても。
1929 首都高速 6 号向島線高架下
水面はやはり波立っていて、流れによる波紋が現れている。ここは屋形船は無い。仮に、海より重油が流れ込む、自動車が落下するなどの事故とビルの瓦礫が漂流すれば火の海だろう。ここも風洞の様に風が強い。
火炎の通り道になりそうだった。
1931 蛎殻町(かきがらちょう)
再び幹線道路に沿って歩行する事になる。ここからは都心から外に向かう人の流れが優勢になる。少しは歩きやすい。ここも、ペースの乱れと排ガスはきつい。物流のトラックが渋滞につかまっている。生活物資が今後十分に入手できない可能性を予感する。
1932 蛎殻町(かきがらちょう)
毎度だけれど、首都高の入り口閉鎖が続いている事を確かめる。
この辺は山手線の様な分かりやすい構造物がない。首都高の出入り口表示が地理確認の有力な手段になる。ここから、大きな到達目標は錦糸町になる。後で考えると錦糸町を目標にするのは粒度が粗すぎていた。
1935 水天宮前駅
半蔵門線で錦糸町まで一気に進める機会を窺うと共に、方向感覚が鈍っている事を自覚していた。地下通路の出口案内を見て、方向感覚を校正しよう。
1936 水天宮前駅 地下通路
出口案内を確認する。地上に比べて静かな地下通路に入った事で、雑踏の音に疲れている事を自覚する。立ったままであるが暫く休む。進行方向は、この地図の右側であると確認。
1938(デジカメの時計は 2 分進んでいます) 水天宮前駅 改札
運転見合わせの案内を確認、ここで錦糸町まで徒歩で進む事を考える。後から反省すると、路線案内をゆっくり見て新宿線を使う手段をここで再認識する事が必要だったかもしれない。
1943 浜町 出口
首都高浜町出口を確かめる。この近辺では特異な構造物だ。この様に見て間違いなく確認できる構造物がこの辺りの道しるべになる。
1944 浜町中ノ橋
同様に地図の画像を撮る。たった 220m
であるが、公園を経由する余裕を失っていた。トイレに行かなくても平気かな?という単純な動機しか、公園による理由が無かった。休息する。情報を得る。食料等を得る可能性は考えていても、動機付けには弱かった。
1947 都営新宿線 浜町駅 案内看板
ここで結果論として反省してみよう。新宿線に立ち寄ってみて 1, 2 時間ほど待てば本八幡まで行けた。本八幡まで行ければ、残りの徒歩時間は 1
時間になる。電車に乗っている時間の最悪を見込んでも 2300
に帰宅は期待できた。また、余震が来ない、津波が来ない、新宿線沿線で火災が発生しない等を期待できるならば、新宿線途中駅で降りる事になっても、徒歩距離は短縮できた。敢えて言い訳をすれば、新宿線で帰宅している最中に、何か追加事態が発生した場合、ほぼ北に向かって歩くしかない。陸の孤島の様な所から脱出する必要がある。可能な行動が限られる心配が有った。
1947 新大橋通り 新大橋西(進行方向とは反対向き)
隅田川を渡る橋の西側に消防車が出動していた。消火活動はしていない。時折の地震で落下物注意とアナウンスしていた。多くの人が徒歩帰宅経路に選びそうな拠点に出動していると思う。道は混雑していて、何かあっても移動は困難だ。
1949 新大橋通り 新大橋西
橋を吊るす柱のライトアップに誘われる様に進む。目標を目指し、そこを通過する。災害時には道程を確認し、確信という支えとなる。気力維持に繋がる。
1950 新大橋通り 新大橋 隅田川
風で波立っているのか、津波で波立っているのか、判断できなかった。川岸に続く遊歩道は冠水していた。どの程度の冠水だったかは不明だ。川岸を歩いていたら、津波の犠牲になる可能性が有ったと言う事か。
1954 新大橋通り 新大橋 東詰
マンションの玄関付近の花壇が壊れていた。躯体と地面で地震による変位が合わなかったのだろう。設計上で想定したと思われる壊れ方に見える。
2000 墨田区 新大橋 3-18
住宅街に入る。平静を保っていた。地震が有ったのだろうか?疑問が湧く。この付近の木造の地震に弱そうな建物も倒壊していない。ここで千葉にある実家、祖母の家の事を思う。実家は
1970
完成の古い鉄筋の団地であり、祖母の家は木造だ。実家に電話は通じていなかった。しかし、ここの現状を察するに祖母の家が壊れていないと確信し始める。この付近は道が碁盤の目の様になっている。方向感覚を失いやすい。方位磁針を取り出し、歩行方向を確かめながら進む。