2011-03-11 に発生した東北地方太平洋沖地震で、交通機関がマヒした時に徒歩帰宅した記録です。東京都 大崎から千葉県 市川まで歩行しました。
1805 浜松町 首都高 都心環状線 ここで首都高速道路の高架下に出る。車の行き気が無い。なぜこれほどまでに渋滞が悪化したのか理解した。首都高から降ろされた車でマヒしている。災害発生時幹線道路は本来一般車両の往来が禁止される。しかし、これでは首都高から降ろされた車は幹線道路から脱出できない状況になる。
1806浜松町 都心環状線高架真下 屋形船が多く係留されている。水面が大きく波打っていて、普段ではありえない流れが発生している。津波によって逆流が発生していると考えられる。波の高さが 1m 高ければ恐らく、こうやって渡ることすらできない。避難はここで断念する事になる。判断の甘さを思い知る。画像では伝わらないが、ここは風の通り道になっている。強い風が吹く。火災が発生していれば恐らく旋風の通り道になるだろう。津波が高ければ屋形船はタイマツ船の様に都心部に入り込み破壊と重油をまき散らす事態になる。
1810 浜松町駅の西側 飲み屋も多く、食事を取るために出歩いている人、この近所の裏道を知っているのか、徒歩帰宅をする人が多く見られた。それにしても、余震で火災が発生する可能性が有るのに営業が続くのは考えさせられる。
1812 浜松町駅・大門駅 中間 東京タワーを見る。損傷を受けたと聞いていた。見た目は分からなかった。ライトアップは続いている。目の前では焼きとりが売られ続ける。ハトバスが見えている。お客は乗っていない様に見えた。東京を知らない人が非常事態だからという理由で下された場合、行き場はどうなるのだろうか。近隣の避難所まで緊急に送られるなどの措置検討は有るのだろうか。
1822東新橋(潮留駅近く)ガスのにおいを嗅ぐ、ガスの緊急対応の為サービスカーが停車していた。都会はやはり健全を保っていなかった。
1824新橋駅付近 高架下
これで山手線外に出る。ある意味迷っても、何処だか直ぐ分かる檻の外にでる。暗くなり画像のブレが大きくなる。フラッシュは使わない主義だ。ビルの明かりは殆ど消えていない。籠城を決めたと考えられる。
1831 新橋駅(昭和通りへ) ここで国道15号線(第一京浜)沿いから、昭和通りへ沿う道を変更する。念のため地図を撮影。少し判断力が鈍っているのを感じる。記憶よりも見た物を再生できる様にする。浅草線沿いで有り、秋葉原を目指すより早く錦糸町方面を目指せる。半蔵門線、新宿線に乗れる可能性もわずかながらある。この時点で新宿線に対する希望が有ったにもかかわらず、後に新宿線駅に一回も立ち寄らなかったのが悔やまれる結果になる。運行再開していたのだ。ただ母親からの返事メールにはその旨は有ったが、帰宅後に遅配される事になった。
近くのレストラン街でトイレによる。
1842 新橋駅 振り返り昭和通りを振り返る。車は渋滞している。どちらの方向に行くにも困難な状態だ。トイレへの立ち寄りも有る含め交差点通過に 10 分。要衝毎に時間ロスが重なる事もここで知る。
1849 東銀座 旧歌舞伎座向い 街頭テレビに見入る人々を見つけた。映像を見る。田園地帯を総なめにしながら進む津波だ。ここでかなり内陸まで及ぶ事態だと知る。デジカメ時刻は 1849 だ。ここで正確な時刻は 1847 で 2 分ずれが有る事に後で気付く。
1850 東銀座 旧歌舞伎座向い 少し迷っている。裏通りを通っていたら直接渡る横断歩道が無い。昭和通り側に行くか、万年橋東交差点に行くか迷う。万年橋東交差点を選ぶ。
1850 東銀座駅入り口> 東銀座駅の旧歌舞伎座、駅入り口を出入りする人は少なくなっていた。恐らく通行人の多くも運行が不可能な事を知っているのだろう。
1853 都心環状線 銀座入口 入り口閉鎖中の表示を確認、全面的に首都高は通行止めだと悟る。一般道路の混雑は必然と認識する。裏道に入った。町の様子は幹線道路に比べて掴みにくい。途中いくつかの銀行・証券の東京店を確認する。次の目標である兜町、証券取引所に近づいている事を実感している。
確かこの辺で寒さのため、手袋を 2 重にする。体温を奪われ体力が減るのを避けるためだ。手前にトイレが有った。ここは寄らずに進んでいる。
1901 京橋消防署 出場した消防車がある。特に火災が起きていない様に思える。この後、どの様な対応を取ったか判明する。拠点警戒に当たっているのを見る。つまり火災が発生しても、集中配備して消火する行動はせず、あくまで避難路の防衛・誘導に当たる方針ではないかと思う。